julycrane0’s diary

ぶれぶれなるままに日暮し

2015消えたノート覚書

人の世界はサークル、円を形成している

一つのサークルを出ても同じ様な人の輪に出会う。

名前も顔もどこかあの人に似てるこの人、

一つのサークルから逃げ出しても乗り越え無い限り、同じ試練がやってくる。

 

与えられた課題を乗り越えるたび、横のサークルから縦のサークルへ移動する。

 

一人一人、課題は違くて、だから、いつでも敵は自分自身なんだ。

 

目の前の事象は、自分を教えてくれる。

 

誰かが書いた葉書の詩を思い出す。

「逃げたら逃げた分だけ追いつかれるよ。」

その通りだと思う

聖書が教えてくれた、「人は塵だから」

人は小さな微生物の集合体なんだと人の中にもサークルがあるのかな。もしかしたら、意識がマトリョーシカの様にメビウスの輪の様に体内と現実の私のこの感覚とを反転してるだけなんじゃないか。

幻や、夢、予知夢が在るのは、すでに起こっていたことがあって、同じゲームを繰り返している様に感じた。神様のTV電波人生ゲーム。乗り越え無い限り、先へは進め無いんだ、

そんな試練の繰り返しの中で、成長、進化し、精神成熟を果たして行く。

そしていつか、誰からも嫌われず誰のことも疎まず全てを許し受け入れられる、そんな賢者たちの楽園がもう既に、何処かにあって、どんな苦しみも思い出話に、華を咲かせているのだろう。その道筋を神は知っているから、一々一つ一つの苦しみを苦労もし無いで助けを求める人を神は救いはしない。

ただ、その社会、サークルには役割があって、それを維持したり助けたりするために努力する人には手を貸すだけのことだ。だから、人には役割があるけれど、願いと努力で役割を勝ち取ることはできる。

そんな中で精神疾患者は、努力を放棄している。私は精神障害者をこう定義する。

努力の仕方も知らないままに努力を放棄し、努力しなくていいことを容認されている人。工夫が足りないし、極端な思考が目立つ障害者をよく見るが、経験の乏しさからきているのを私は目の当たりにした。そして、頑張らなくてもいいというその言葉に流され、自然淘汰されて行く運命に身を委ねるのだ、

障害は、性格ではないかもしれ無いけれど、その人の価値観は障害を欲してる。

 

ここでいう、価値観とは、過去出会ってきた全ての事象、潜在意識を形作っているもの。

先祖の思いも含まれるだろう。経験してきた感情は遺伝子に組み込まれていく、大昔の狩猟民族の名残が残るというのなら、一世代まえの母親の感じた感情が子どもの性格を決めるのではと私は2012年にはせさんと話してた。

だから、私は子供を産まないと決めた。死を願い続けた私の苦しみを受け継がせることはできない。