kへ宛てた手紙抜粋
前も言ったけど、コロナの影響で世界中が莫大な経済損失を被っているが、今こそ、お金という概念がなくなる時ではないか、
物心着く前からずっと、聖書を教えられてきた。毎日奉仕に出かけた。2、3歳の子供にこう尋ねられたことがあるだろうか。
神はおられると思われますか?
神がおられるならこの世から苦しみが消えないのはなぜだと思いますか?
そうやって、各家を訪ねて歩いて聖書の教えを説いて回った。
人の憎しみや苦しみ、怒り嫉妬、空虚、それらに私が敏感なのは、私がそれを知りたい、取り除いてあげたいと、意識的に見てきた過去があるからだ。
そして、小学生の頃見つけた答えはお金だった。
お金がなければ、人が人を憎むことも争うこともない。殺人も嫉妬も自殺も。お金の無い世界にならないかな。私は本気で願った。
色々な人にその話をした。
でも大人になってある男が言った。
お金はモノだ。それを扱う人の心が問題なんだ。お金は悪くない。そうだね。でも、お金がなくて人が死ぬこの世界は変だ。
そう思ってた。
そして、今その夢が叶うかもしれない。お金の無い世界
お金は本来知的生産ゲームに過ぎなかったのだから。
お金の生業とは、多少騙しあっても、価値を生み出し知恵を絞り信頼とジョークのやり取りを楽しみコインを稼ぐそうこれは古代からのゲームだった。
株式市場なんて、明らかにゲームだ。人の心が不安になったり高揚したり、そもそも、売りも買いも動かさなければ大恐慌なんて起こらないのに、損が出ると言ってもそれは売る人が増えるからで、全員が全く動かさなければ、大恐慌は起きない。
大学の経済学の授業で、その仕組みを聞いた私は変だと思った。
なぜ、それで人が死ななければならないのか。話を戻そう。
今コロナで世界中が莫大な経済損失を被っているが、今こそ、お金という概念がなくなる時ではないか?
単なる知的生産ゲームに生死を左右されるのは本末転倒だ。形骸化した社会の仕組みにメスを入れよう。
お金を全て電子マネー化し、お金を数字だけの存在にする。そして、一定額、数が全ての人に等しく付与される。世界的にもね。
そして、等しく15歳(仮)で信頼と社会への貢献度によってポイントが付与されていく
足りない人は努力したり、仕事をすればいい。今人は仕事にちゃんと生きがいややりがいを見出しているから仕事をしなくなるということはないだろう。でも、多分、これは形骸化して行って時代が移り変わる頃には前の理念や気づきを忘れて今の社会主義のように崩壊してしまうかもしれない。だから、資本主義のテーマパークを作って、世界の一部にはゴリゴリの資本主義のエリアを作って子どもたちに体験させるのがいいと思う
あとはほぼ、ロボットにやってもらえばいい。
そして、人に苦しみをもたらすものとして見つけたもう一つの答えは愛欲だった。
大学生の時それを解決する良い方法を見つけた。多夫多妻。
一夫一妻がいいならそれは個人の自由だ、だが、多夫多妻を禁止する必要性はない。養えるものが養い、愛したい者を愛せばいい。妥協も嫉妬も削減される。それは努力する人を増やすだろうし、子どもたちは親ではなく<大人>という数数多の理想像に触れるだろう。そこにはきっと、無意味ないじめは起こらない。自分の空虚を埋めるがための虐めはね。みんなが親なのだから、相談する人は大勢いるし、行きたい家に住めばいい。子どもは愛情を注いでくれる大人をちゃんと見つけるだろう。良い教育者のところには称号を与え信頼、貢献度数が集まるから収入は増え、養える。
ここですべてのものが幸せになるための物語を書かせて。もし私のみた幻が妄想が現実が見つけた答えがそれらの答えが合っているならば
人は人ですが、そうでないものも人となり、その優しさゆえに多くを導いていくものとなれます。
時間は平等に与えられます。
ではその平等さとは何ですか。相手の時間を奪わず導き、助け、癒し、築き上げる者に、多くの時間が宿ります。
そこに身分は無く家柄、血筋ももはや関係がない世界でそれは実現するでしょう。人をお金で管理し、争いから身を守る為に生まれた家族というその制度はなくなります。それは、すでに過去、日本人がしていた轍。縄文時代、縄文人は森で暮らす狩猟民族であったが、そこに家族は存在しなかったという。血筋という概念は、争いの絶えなかった大陸からやって来た渡来人が身に付けていた知恵であった。
家柄や血筋も関係のない世界、
私の子どもはみんなのものみんなの子どもは私のものとして育てて行こう。
そこに争いは起こるだろうか、人を殺すほどの嫉妬が起こるだろうか、
そして、学校教育に関してだが、社会に出てから必要になるスキルと学校で習う教科教育の繋がりを明確にする必要があるだろう。
私の見解では、学校の勉強で重要なのは、日々の課題に対して予習復習をするというその心構えと行動だ。
準備と反省と言い換えてもいい。
そして、日々の反復、繰り返すことのできる者は社会に出てからも粘り強さを失わない。できない問題に何度も試行錯誤を重ね解へとたどり着く経験をした者は容易に習慣を身に付ける。
見た目の役割意識について
10年前の主張をもう一度きちんと言わないといけないのだろうか、人の噂して批判するならちゃんと読んでから言えよ
まず、美人とは存在しない。
平安時代美しいとされたのは下膨れにおちょぼ口、切れ長の目に白い顔、
いわゆる中国朝鮮系の顔立ちだ、明治に入ってからは秀でた額に大きな目高い鼻筋に高い頬骨小さい顔、所謂西欧系の顔立ちだ。
そこからなにが読み取れるか、
美人とは異国への憧れから生まれた概念に過ぎない。
以前、外国に行けたのは知識人であって、“偉い人が書いた書物が主要なメディアであった。
異国へ渡った彼らはヒールを履き颯爽と意思強く歩く女性たちをどの様に描写しただろうか、ブロンドの髪、通った鼻筋、ブルーの瞳、それら外形でしかない。
本来「美しい人」として描かれたそれらを、書面を見て、“美人とはこういうものだと、庶民は外形を記憶してしまったに過ぎない。そもそも時代によって流行る美人は変わってきただろう。
つまり、美人とは異国への憧れから生まれた概念であって、そもそも存在しない。この世にいるのは、「美しい人」と、「そうではない人」だけだ。
それに人の目の見え方は
光の取り入れ方で変わるし、美しさの感覚も要は光と影の作用に過ぎない、カラーコーディネーターを2008年、平成20年に勉強して、そのことに気づいた。
美しさに対して人の反応が違うのはそもそも目の光の取り入れ方、見え方が違うのだ、
にも関わらず、現代人は美人を定義して生きている。美人は得してると言って被害者意識で責める女どもがいるが、本当は真逆である事実を提示しよう。
マイノリティには少数派と共に、差別されるものという、意味がある。
美人も障害者、被差別部落同様マイノリティである。
昔のイメージで言えば、不良は美人が多いと言われていた。何故か?
美人は教師に学力面で期待を掛けられる事が少ない。
ハーバード大学が行った実験がある。
教師には学力検査だと言って、子どもたちに試験を受けさせ、適当に子供の名前を挙げこの子らは優秀だと説明した。
教師はその選ばれた子たちに目をかける様になり、結果的にその子らの成績が上がったのだ。
学力検査は全くのでたらめであったが、教師が“期待する様になった子どもたちの成績が上がったのだ。
声掛け、微笑み、期待に満ちた眼差し、叱咤、子どもたちはそれらを感じ取る。
余談だが、その真逆が起きると虐めが誘発される。
それらから身を守るために気の強さを演じなければならなくなる子もいるだろう。
美人の性格は二極化を辿る。
バリバリ竹を割った様な性格、キャリアウーマンのついて行きます姉さんか、なよなよ男にべったりであの子ダメよね〜な子か、
どちらかにキャラ分けできていなければ虐められてる。
普通の美人って、聞いた事がないだろう。
顔面中途半端が美人の居場所を練り上げていく。
周りからしたら安心できないのだろう。
何もしなくても自分より優れてる
いけすかない奴と思ってるから、
それすら、勘違いなのにね、
美人を見る時人はどっか悪いところないかな?から入り、
そうじゃない人には、どっか良いところないかな?から入る
女子大の子ははっきり言ってきたよ。美人で賢いとかムカつくって、
わたしが何をした?何もしていなくても煙たがられた、
小学校に入学したあの時から、生きる意味を失い、死を嫌う神の前で何故生きるのか、問い続けた日々だった
綺麗可愛い美人と言って近づいてきては裏切られた、
まあ、これは私情だ。
社会に目を向けよう
芸能界という、界の中の鳥小屋、見世物小屋にいれば生きやすさ、というよりは、居場所を得られはするのだろう。
もし、仮に、芸能人と同じ様な外形のものが同じ職場にいて、自分と同じ人を好きだとしたら、あなたはどう反応する?
表面上は親しくなろうとするだろう、だが、その腹の中は?
アイドルと祭り上げて違う空間の生き物だと線引きすることのできない環境になった時、
自分と比べる意識が芽生えた時、
どうしても手に入れたいものがあった時、排除するために嘘の噂を作る人間を私は目の前で何人何十人と見てきた
美人は不幸のシンボルでいなければ受け入れてもらえないのか、
姉に教わった、人は自分が心地よくいられる人と仲良くしたいと思うんだよって、
当たり前のこの原理が私には針の筵に思えた、
社会の中に在る見た目に高低差をつける感覚が消えない限り、友達ができることはないのだと、私はダイアナが欲しかっただけなのに、赤毛のアンシャーリーに出来た親友の名。
若い時、友人も居らず、教師から目をかけてもらえず、期待されず、むしろいじめの標的にされ、就職先も顔を売る接客とかが関の山で、年老いて美しさも失った時、何も手にできなくなる、それすらも勘違いした女どもにとってはざまあみろと笑いの対象に過ぎなくなるのだ、
虐めについてずっと考察してきて、マウスの実験の論文を応用したのを覚えているだろうか
挙動不審なものやブスや美人等目立つもの、目に留まるものを見たとき、人の瞳孔は開く。
それ以前に、怒りを感じた時も同様で、記憶の誤変換が起こる。
別のことで怒っていたのに、目の前でキラキラしてる美人に憤りが転換されてしまうのだ。怒りが置き換わってしまうから、美人は嫌われやすい。
顔面中途半端は自身の身勝手な怒りを正当化する為にあらゆる手段を使うが、
自分の行いを恥じることも、反省することもない人間が多い。
少なくとも美人を貶して反省してる顔面中途半端を私は見た事がない。
それは美人は得をしているという思い込みだ。顔面中途半端の家系に流れるその噂、自分たちで少数派の美人を貶めるために作った噂で、
自分たちが“得をするために子に代々受け継いだ思想だろう。そもそも、あなたが特別視して区別しなければ美人が特別になることはないのに、自分たちで祭り上げておいて、美人ばっか得して!というのは、お門違いも甚だしい。
美人に起こるシンデレラストーリーが色んな童話や民話、落語や小説に語り継がれてきたのはそれが滅多に起こることではないから面白く、
珍しいものであったからだろう。雨月物語を読んでみたら?落語を聞いてごらんよ、グリム童話の原作は実は実母からの仕打ちであったこと、母でさえ美しさに嫉妬するのだ、
マリリンモンローが言ったでしょう、誰にも気に留められることがないのならシンボルでいたほうがいいって、
悲しみの中でもがいてきた人の輝きを一瞬輝いたその剥がれかけた鱗を眺めては、それすらも欲する顔面中途半端の貪欲さには背筋が凍る大嫌いだ。
だが、改めて主張しよう。美人とは存在しない。
得をしてもい無い。
ただあなたが祭り上げなければ、同じ人で在ることに変わりはないのに、
見た目の役割意識を取り払って、
顔面中途半端は美人を貶して自分を守ろうとする無意味なことをする必要もないし、
美人も自分は特別だなんて思うこともできないよ。
皆んな、同じ人で在るのだから、
「美しい人」を目指して行こう
見た目の役割意識を取り払って、みんなが最高のパフォーマンスを発揮する様になったら
その先に日本国民総エリート計画の話をしたんだ。
ココア
今豆乳とココアの相性抜群。に気付いた。
てかお店のココア、豆乳で作ってやしないかい?
お食事
牧場の朝というヨーグルト
スライスしたバナナ
を食パンに乗せる
おすすめは夜作って、朝食べる。
水分が食パンに移って生クリームみたい。濃厚になるから美味しい。
脚痩せ発見!
ベッドに横になって
手足をバタバタさせる
子どもがおもちゃ買ってって、寝っ転がってバタバタしてるのみたことある私世代ならよく分かるあの動き、
足も痩せるし
苛々ストレスもどこか吹っ飛ぶし、
便秘も、解消。
身体中がじんわり温かくなって血の巡りを感じる。
走ると脳にダメージが来るって言うからこのベッドで地団駄は、頭も揺れないしいいと思うんだ。
揺すり方を色々変えてみたりすると身体のじんわりじわじわの場所もじんわりの仕方も変わって効いてるって、すぐ実感する。
隙間ができて細さはほぼ取り戻したな♡
進路選択
中学生の時分からなかったことがある。
難関校に行って底辺にいるのと、低レベルな学校に行ってトップでいるの、どっちがいいんだろう。
今なら明らかに難関校だと答える。
トップでいたとしても、その成績が人目に触れるのは進学する時の1回目の一点だけだ。
社会に出てからも、今は転職が当たり前。大学卒業時の成績を加味されるのは1社目だけだ。
それに、転職活動中に高校時代、大学時代の成績を聞かれることは無い。
履歴書に残るのは校名だけだ。
難関校に行くことをお勧めする。
もしかしたら、難関校でトップに立つことだって、有り得なくはないのだから。