julycrane0’s diary

ぶれぶれなるままに日暮し

そもそも、美人とは存在しない。美しい人とそうでない人がいるだけだ。では、なぜ、美人という型が存在するかの様に皆、語り合うのだろうか。
平安時代美しい顔とされたのは、下膨れにおちょぼ口、細い目に白い肌。中国、朝鮮系の顔立ちだ。今、美しいとされるのは、大きな目に秀でた額、高い鼻筋、つまり、西欧系の顔だ。そこから見えてくるのは、異国への憧れという心理作用だ。昔、外国へ行けたのは、主に知識人だ。彼ら優れた者たちが異国に渡り、本に記した。ヒールを履き、颯爽と威風堂々歩く女性たちは、カッコ良く、美しく見えたことだろう。その、自我を持った美しい女性たちを書物では、どの様に表現するか。青い瞳、ブロンドの髪、通った鼻筋、要は外形でしかない。それらを、昔の人はそのまま美人とはこういうものだと、知識人、偉い人たちが書いたものだからと、多くの人がそれを読み、それを誠とした。
つまり、異国への憧れが美人を作り出したに過ぎない。
美しい人は、自信に満ち溢れた眼差しと、姿勢を持ち、堂々としているだろう。その生き様、何を求めて、生きているのか、その人を形作るのは、そのものの、望み、願いによって定まるものであって、美人だとか、ブスだとか関係がない。なのに、見た目での、役割意識で、自分の力を封じ込めてしまう子供たちが多い。それからもう一つ、人の目の見え方は、千差万別で、美しさは光と陰の作用でしかない。そんな些細で、曖昧な尺度を持って、どうして人を批評できるだろうか。多くは、虚しい独り善がりな基準にすぎないのに。
キャラ、や、役割意識、それらを取り払って、個々人が、最高のパフォーマンス、実力以上の力を発揮することが出来るようになったなら、この国はもっと豊かになる。日本国民総エリート計画。例えば日本では軽視されたとしても、生活保護者になったとしても、外国に行ったら認められる知識人になれるかもしれない。滑舌が悪いからと嘆くが、別の言語でだったら、流暢に話せるかもしれない。そういう、こと。


社会という名の会社で私が負っている責任は、偏見をなくすことだ。

すべてのものが幸せになるための物語